発達障害を持つ方にとって大きな関門は学校を卒業した後、一人の大人として社会に順応することであると思います。ADHD傾向をもつ私は社会人一年目にして大きな挫折を経験しました。
療養、就労移行支援施設の通所、特例子会社への勤務を経て、徐々にではありますが社会順応できつつあります。それまでの経歴、過程、就労移行支援施設の経験や特例子会社へ就労の体験をコラム形式でまとめてみました。
同じような挫折を味わい立ち上がろうとしている方等、これから就活を行う発達障害を持つ学生の方など、一人でも多くの役に立つことができれば幸いです。今回は私の経歴と現在に至るまでの経過をまとめます。
子供のころから劣等感を感じていた
人によって自らの障がいを自覚する時期は異なると思います。子どもの時に既に人との違いを自覚している人、社会にでて自分の障がいを自覚する人、一生気がつかないままの人、様々です。
私の場合、人との違いを自覚したのは小学校に入って間もなくです。シャツを素早くたたんだり、みんなと同じ動きで体操をしたりいったことが全くできないのです。
おそらく視覚的なワーキングメモリが弱いことが原因である思われます。つまり目に入った動作を瞬時に覚え、自分で実行してみるといったことができない。正常な人は脳の中に一連の流れを一時的にメモして思い出しながら実行する能力があります。
ADHD傾向にある人は、このワーキングメモリの機能が弱いのです。また二つの動作を同時に行うことに難しさを感じました。たとえば笛を扱うことが全くできない。息をタイミングよく履きながら指を動かすといったことができないのです。
当時は当然ながら、そんなメカニズムなど知るよしもなく、ただひたすら劣等感に耐える日々でした。 何もかもできないことはなく、何かを創造する力はかなり秀でていたように思えます。絵を描いたり、文章を書きたりといったものです。作品が表彰を受けることも少なくなく、賞という肩書が私の日常的に感じている自信の低さを補っていました。
社会人一年目で挫折
不器用さと劣等感を感じつつ大学卒業までは大きな挫折をすることはありませんでした。周囲に対する劣等感は強く持ち続けていました。民間企業への就職活動は全くせずにあらゆる公務員採用試験を受けました。
子供時代から賞などの肩書で自分の自信を補っていた私は劣等コンプレックスを「公務員」という肩書で補おうとしたのです。そこで自分に何ができるのか、何がしたいのかを考えることはありませんでした。
幸か不幸か、私は警察の事務職員に採用されることが決まりました。ただ賞とちがってそこで終わりではなく、その先ずっと責任をもって働き続けなければならない覚悟はありませんでした。
私ほど、自らの特性とミスマッチな職場に就職する人は稀かもしれません。私は警察署の落とし物係に配属されたのです。落としたものは、一刻も早く持ち主の元に返さなければならない。財布が届けられたら一円たりとも間違わずに帳簿に中身を記録する。ミスが笑ってすまされない世界に入ってしまったのです。私の書く文字は特徴的で公的な文書を作成するにはあまりにも個性的すぎました。
なにより苦手だったことは公用車の洗うことでした。ワーキングメモリが弱い私は、数秒前に洗った場所を忘れてしまうのです。同じところばかり磨いたり、一方で全く汚れが落ちていない箇所がでてきて毎日が叱責の嵐でした。それでも毎日仕事には通い続けました。
死に物狂いで勉強して手に入れた公務員の職を手放すこと苦渋の選択でした。自分の幸せの価値判断基準は、自分がいかに充実し、健康的に生きられるかよりも世間に自分がどのように見られているかにありました。いつまでもストレスに耐えるはずもなく、二次障害のうつを発症し退職を余儀なくされました。
就労移行支援施設に通い始める
私は、警察を退職すると同時に、障害者手帳を取得して、就労移行支援施設に通うことに決めました。通い始めた当初は他の通所している方に対し、どこか上から目線で見ている部分ありました。精神障害というものに強い偏見と拒否感があったのです。自分自身の障がいに劣等感を感じ、受け入れる段階にもなかったのです。
しかし事業所では誰もが必死で仕事を探していました。「自分で働いたお金で好きなものを食べたい」「誰かの役に立ちたい」そんなささやか動機の人間はここまで必死になれることを目の当たりにしました。それは誰にどう思われたいかではなく自分自身が幸せになりたいという欲求からだと感じました。
「公務員」という肩書に縛られ、自身を縛っていた私の頑な心にも少しずつではありますが変化が現れました。
特例子会社に就職する
採用が決まった会社は、特例子会社でした。最低賃金ギリギリでボーナスなし、一年更新の契約社員です。前職と比べお金と安定性という物差しで比べれば、全く心細いです。屈辱とすら感じました。幸い障がい年金の受給が決まっていたのでなんとかギリギリの生活は可能でした。
仕事を初めて一年目は休職期間が長がったこと、その時期でもなお自分は「公務員」から「障がい者」なってしまった挫折感と劣等感は残っており、精神的に落ち込む日々が続きました。
設立したばかりの会社であったため、最初は仕事が少なく仕事がシュレッダー作業のみ日もありました。徐々に親会社の社員の方の信頼を得てゆくうちに仕事も増え忙しい毎日になってゆきました。
徐々に会社は大きくなり、後輩も増えていきました。自分の受け持つ仕事に対し責任を持つという、前職に感じなかった当たり前の自覚も生まれ始めました。幸い、得意な分野の作業は得意な人に任せるスタンスの会社なので、社員向けの業務マニュアルの作成を任されました。
自分の担当の仕事を続けてゆくなかで自分が誰かの役に立てている実感ももてるようになりました。そして自分の力でお金を稼げていることが大きな自信の回復につながりました。
まとめ
子どものころから、不器用さを感じ、劣等感を感じていました。あらゆる肩書でそれを覆い隠そうとしました。就活の際も自分が何かしたいのかではなく、人からどう思われたいかを基準にして就職先を決めてしまいました。当然うまくゆくはずもなく二次障害のお土産付きで退職することになってしまったのです。
ただこの失敗がなければ、就労移行支援施設や新たな会社での人間的な成長や働くことの本当の意味へ気づきや喜び得られることはできなかったかもしれません。
次回は、一回目の就職で失敗してしまった原因についってもっと深く掘り下げて考えてみようと思います。